曲直瀬道三(まなせ どうさん)は安土桃山時代に名を残した医師です。
将軍足利義輝、細川晴元、三好修理、松永弾正らに認められて京都に学舎啓迪院(けいてきいん・迪のしんにょうは点ふたつ)を建て、門人は全国から集まり、名声は全国に広まったと言います[1]。
…で、痛風と何の関係があるかというと、それは鈴木修二氏の『痛風病名史考』(1969年)という短い論文によります。
鈴木氏はその中で、痛風という病名が日本で最初に取り上げられたのは、曲直瀬道三が著した『啓迪集(けいてきしゅう)』(1571年)であろうと述べておられます[2]。
啓迪集以前の『全九集』(月湖/1452年)に痛風の記載がないことを鈴木氏は訝しんでおられますが(その全九集は曲直瀬道三が注釈本を作ったりして関わりがあります[3])、その他『医心方』(丹波康頼/984年)、『頓医抄』(梶原性全/1304年)、『福田方』(有隣/1363年)にも痛風の記載を発見できず啓迪集を最初とされましたが、鈴木氏は「浅学のゆえに,先行のものを見落としている可能性がある」として「日本への痛風という病名の輸入が安土桃山時代まではさかのぼれるということだけを確認するにとどめたい」と断定を避けておられます[2]。
とても謙虚な物言いをされる鈴木氏ですが、目の前にあらわれた事実だけを信じる、科学者の思考の仕方とはこういうことなのでしょう。
しかし残念ながら鈴木氏には見落としがあったようで、巌琢也氏が著書『痛風 発作を起こさないための尿酸コントロール』(1999年)に、
日本の医書に初めて痛風が初めて登場するのは、安土桃山時代の一五七一年、曲直瀬道三が著した『啓迪集』であるというのが従来の通説でした。ところが、これより早く十四世紀南北朝時代に有隣という人が『福田方』のなかで痛風という語を用いているという論文が、最近出ています。[4]
とされて、ここで鈴木氏の説が間違いであったことが判明しました。
…個人的に『痛風病名史考』はとても面白く興味深い内容だったので、その見落としは少し残念に感じます。ですが論文の価値が削がれることはありませんし、一方の福田方を精読された研究者の方も大変なご苦労があったと存じます。ただ、その福田方の論文がどこにあるのかわからず残念です。わかり次第ご報告します。
…曲直瀬道三に戻ります。
道三は啓迪集を完成させた後、ときの天皇に拝謁し、診察を行っています。すごいです。
晩年はキリスト教の洗礼を受けたそうで、かなり話題になったようです。そのあたりのことは安土桃山時代に宣教師として来日したルイス・フロイスの『日本史』に述べられています。道三が医学だけでなく様々な学問に精通し、その知識と人柄から尊敬を集めていたことがわかります。[5]
で、道三は文禄3年(1594年)に没した後、京都市の十念寺に葬られたとのことで、ちょっと行ってみました。
◎十念寺
寺町通りを北上し、十念寺の門前で最初に目に入るのは、
曲直瀬道三の石碑です。
その次に目に入るのが、
本堂…ですか?!
コンクリです。モダンですね…。
境内にも曲直瀬道三の石碑があります。奥へ進みます。
と…
ありました。
事前に知ってはいましたが、質素なお墓です。とても天皇の脈を見た人の墓とは思えません。
裏側も粗く削ったままで素朴といえば素朴。傘も落ちるんじゃないかと心配です。
「一渓道三居士」と彫ってあります。あくまで素朴。
曲直瀬道三という人は、ときの権力者と通じ、医学界のトップにいた人のようですが、こうして質素な墓だけを見ると、権力や必要以上の華美を好まない人だったのかなあと勝手に想像してしまいます。
なんとなく、ここにも謙虚な科学者の姿を見た気がします。
…ということで、今回は少し旅ブログ風でした。 …ところで、洗礼受けてても十字架のお墓じゃないんですね…?
境内のイチョウを見上げて一句。
(ぎんなんうまいですよね)
【参考】
[1]『医科学大事典45』 曲直瀬道三〈p87-89〉(講談社/1983年)
[2]『痛風病名史考』(鈴木修二 著/リウマチ第9巻 第2号/日本リウマチ学会/1969年)
[3]『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』(真柳誠/京都・龍谷大学/1997年) 〔類証弁異〕全九集
[4]『痛風 発作を起こさないための尿酸コントロール』(巌琢也 著/新星出版社/1999年)
[5]『完訳フロイス日本史③ 安土城と本能寺の変 ー織田信長篇Ⅲ』〈p180-191〉第五九章(第二部七〇章)(ルイス・フロイス 著/松田毅一 川崎桃太 訳/中公文庫/2000年)