◎ベルツの日記 上・下
トク・ベルツ 編/菅沼龍太郎 訳/岩波文庫/1979年/上 ¥860+税/下 ¥900+税
エルウィン・ベルツは明治9年(1876年)お雇い教師としてドイツより招かれて来日し、途中何度か帰国していますが以後26年間、東京大学医学部で教鞭をとり、多くの医学生の育成にあたりました。現代までに通じる日本医学の基礎をかたち作った、まさに「日本近代医学の父」であります。
痛風が日本で初めて確認されたのは明治31年(1898年)で、それまで日本には痛風がなかったとされています。その証拠(?)として使われるのが、安土桃山時代に来日した宣教師ルイス・フロイスと、エルウィン・ベルツの著書にある「日本には痛風がない」という記述です。ベルツをここで取り上げた理由、つまり「痛風」との関連はここにあります。というかこれだけです。では、その記述はどの著作のどの部分にあるのでしょうか?
まず『ベルツの日記(上・下)』です。ベルツの代表的な著作だと思います。「日本には痛風がない」はきっとここにあるでしょう。あるはずです。あってくれ…でも読んでみると…ありませんでした!『フロイスの日本史』とやや同じパターン。
でも唯一、下巻の184ページに「痛風」の二文字を発見できました。
草津は将来、欧米からさえはるばると痛風患者が訪ねてくる、世界的の温泉場となるに相違ない。
〜 ベルツの日記(下)p184より
これは明治37年9月22日、草津の温泉地で書かれた日記です。ベルツが日本の温泉の質の高さに着目して、療養施設として温泉地の整備を進めたのは氏の大きな功績のひとつとされています。
ちなみにそのころには日本でも既に痛風が確認されていますが、ところでそもそも痛風に温泉は効くのでしょうか? 痛風というより尿酸値を下げる効果でしょうが、あんまりピンときませんね…。
『ベルツの日記』には、日本が欧米の近代文明を貪欲に吸収しようとしていたいわゆる「文化革命」期の動乱の様が、いち外国人の冷静な視点で綴られています。同時に日本人の国民性や独自の文化の様を目の当たりにした新鮮な驚きと、それに対する評価、批判が率直に、しかも偏見を抜きに語られています。
明治維新前の歴史や文化は「野蛮なもの」と自虐的に恥じる日本人の考えに対して、ベルツは、それをあまりにも急激な変化への反動が生んだ弊害であるとして、古よりの貴重な文化を軽視せず、むしろその素晴らしさを再認識し、新しい欧米の文化はゆっくりと、慎重に導入すべきであると述べています。そして在日欧米人の日本人を蔑む言動がその自虐を深めていることを厳しく批判します。
ベルツは日本人の優れた資質を認めて、その評価は教職を辞するまで変わりありませんでした。ベルツは日本人が、
新しい意図への激しい熱意、それを成就するためのたゆまぬ忍耐と努力、あらゆる困苦欠乏と危険を平然として意に介しない心構え
というものを持っている、そのことをよく知っていたのです。
ベルツがそのように日本人を理解したのは、ベルツが日本人と同じ考え方、同じ目線に立ち、いっさいの偏見をもたずに人々と交際したからでした。日記には、日本での日常にカルチャーショックを受けている様が描写されます。大火事に遭ってもさして動じない人々、築地で歌舞伎を観劇するも、日本人を含め誰もセリフを理解していなかったことのおかしさ、隅田川沿いの満開の桜の美しさ、それを見る人々の整然とした様、料亭で繰り出される芸人たちの技の数々、隅田川の川開きで流される色とりどりの灯篭のきらめき、以前は嫌いだった芸者が実は知的、美的に教養の高い女たちであったこと、宴会での踊りの舞い手の可愛さに、ほとんど一目惚れしてしまうこと…などなど。
もちろん『日記』には仕事や政情、国際情勢に関する記述が多いのですが、このような柔らかい内容の日記もあって、お堅い調子のものばかりだろうと思っていた私には逆に、非常に楽しめました。しかしそれも上巻の終わりくらいまでで、あとは日露戦争についての記述が大半を占めるようになります。それが読んでいてつまらないということではなく、そこからもベルツの批評がいちいち的確で、まるで預言者のようであり、その時代の世相を知る上で非常に興味深いものです。
ベルツは日本を生涯愛し続けました。愛するが故の苦言を含めて、その思考のぶれのなさは今の日本人にとっても色褪せず、深い感銘を与えるのではないでしょうか。
…と、痛風からかなりハズレました。結局「日本には痛風がない」はどこにあるのでしょうか?(つづく)